ナイアガラの滝の歴史|はじめに
アメリカの歴史と同じくらい長いナイアガラの滝の歴史
みなさんは、「ナイアガラの滝」という言葉を聞いて、何を想像されるでしょうか。ハネムーンやアメリカ横断旅行など、毎年多くの観光客でにぎわうナイアガラの滝は、観光地化される前は、どのような場所だったのでしょうか?
このページでは、ナイアガラの滝の歴史や、それにまつわるストーリーをご紹介させていただきます。
ナイアガラの滝の起源
18,000年前は、高さ2~3kmの氷におおわれていたというナイアガラ(オンタリオ南部)。
その後、何千年もかけて氷が完全に溶け、ナイアガラの滝が自然の力により形成されて、その土地に人が初めて足を踏み入れたのが、
約12,000年前だといわれています。12,000年前というと、日本では「縄文時代」ですので、いかに昔の話かご想像頂けるでしょう。
クローヴィス(Clovis)と呼ばれる先住民族がエリー湖の海岸線に居住し、約3,000年ほど前まではその周辺(エリー湖からオンタリオ湖にかけて)は雄大な森林に囲まれていたというのですから、今の姿からは想像もつかない景色だったと思われます。
後にウッドランド(森林)時代と呼ばれることになった3,000~300年前の時代には、イロコイ族と呼ばれる先住民族がナイアガラの滝周辺を代表する人々として、より今の私たちの生活に近い生活を始めます。
つまり、民族の中に村や部族が生まれ、その中でも政治的な体制が構築されていったというわけです。今日でもよく知られている、ネイティブアメリカン(インディアン)と呼ばれている人々の部族内・外の関係性の原型とも言えます。
この頃はまだ、今の観光地としてのナイアガラの滝とは程遠い場所でした。そこからどのような経緯を経て、今のナイアガラの滝が生まれたのでしょうか?
ナイアガラの滝の歴史|大航海時代
17世紀にヨーロッパからの移民が踏み入れる
17世紀初頭に、ヨーロッパからの探検隊や宣教師たちがこの地域へ到達し、先住民たちの生活が徐々に変わっていきます。
ヨーロッパ人がはじめてナイアガラの滝をその目で確認したのが1604年、実際にナイアガラの滝周辺地域を訪れたことを初めて記録に残したのは1678年だったのではと言われています。
かの有名なクリストファー・コロンブスが新大陸を「発見」したとされ、のちに「コロンブスデー」として公休日に設定されたのが1492年の10月ですので、ヨーロッパ勢がアメリカの土地に初めて足を踏み入れてからナイアガラにたどり着くまでは、150年近くの月日を要したこととなります。
この頃から、調和を尊重し、自然の中に平和に生活していた先住民は自身の住む土地を「ナイアガラ」と呼ぶようになります。
その語源は、イロコイ語からきていたり、モホーク語で「首」を意味する言葉からきている、というように諸説あります。また、イロコイ語で「海峡」「轟く水」を意味する言葉Onguiaahraが、ヨーロッパ人にも発音しやすいように簡易化されたのが「ナイアガラ」だという説も有力です。いずれにせよ、この時代が様々な分野において、もっとも興味深い時代とされているのは間違いないです。
フランスが与えた影響
初めてフランス人がナイアガラを訪れたのが1615年頃だったと言われており、その頃のナイアガラでは先住民たちの部族間抗争が激しく繰り広げられていました。
その後、フランス人宣教師、探検団が続々と新世界に進出していきます。先住民に歩み寄り、戦闘方法などを指導することで、フランス人は彼らからの信頼を徐々に得ていきます。その結果、数々の失敗を重ねながらも、毛皮の貿易商売をよりうまく運ぶための交易市を建設していきます。しかし、初期のフランス人たちは強力な敵も作りました。
交易市を建設の過程の中で、フランス人は「セネカ族」という部族との抗争を経て、ついにはセネカ族を襲撃し、部族は大きな打撃をうけます。その後、セネカ族はフランス人の交易市を包囲し、彼らが外に出れないように圧力をかけることによって、交易市内に生活するほとんどのフランス人を餓死に追いやります。
闘争に終止符を打つべく、フランス人は、フランス人男性とセネカ族の女性の結婚を提案します。これが功を奏し、セネカ族の人間も再びフランス人を信用していきます。その際に「小さな交易所を建設したい」とセネカ族をだまして建設した巨大な交易市「ハウス・オブ・ピース」は、現在も「フォート・ナイアガラ(Fort Niagara)」(地図)として残っております。
ナイアガラの滝中心地からは距離がありますが、ナイアガラ川を北上した国境線上(アメリカ側)にありますので、お時間がある方はぜひここまで足を延ばしていただくのもいいかもしれません。また、その時代に交易ハブとしての役割を果たしていたフォート・ナイアガラの南に位置するルイストン(Lewistown)という町にも、その頃の影響が色濃く残っています。
イギリスの与えた影響
フランスが時間をかけて築き上げてきたナイアガラでの成功を奪うべく、1759年にフランス人を襲撃してきたのがイギリス人です。
やがてイギリス人は交易市を乗っ取り、そこで働いていたセネカ族を皆解雇してしまいます。これが後のイギリス人とセネカ族との間の抗争の火種となります。
イギリス人勢は、ルイストンを自身の避難地として強化していきますが、1763年ごろからその周辺でイギリス人がセネカ族による襲撃を受けるということが多発し、襲撃は次第にグレートレーク沿いに範囲を広げていきます。この頃、交易市のシステムを強化する目的でイギリスからたくさんの人員が送られてきます。しばらくはその勢力を保持していたイギリスですが、徐々にその勢力は衰えていきました。
アメリカ革命時代
その後イギリスやフランスからの植民地開拓者や、アメリカの土地で生まれた彼らの子孫が、新世界をめぐって様々な変化をもたらし、新たな時代の波が押し寄せます。この時代を俗に「アメリカ革命時代」と呼びます。衰えていく勢力を何とか立て直そうと、イギリス勢は輸入商品などを課税し始めます。
イギリスが一方的に税制度の導入を試みたことによって、その他の先住民を含む住民たちがそれに対抗する形で、関係は徐々に悪化、複雑化していきます。これが後の「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」の発端となります。
この時代の植民地は、主に3つの立場に分類されます。
- 1. 革命派
アメリカ人の先祖となる、入植者の子孫でアメリカで生まれた者たちを指す。
イギリスに虐げられ、反発するような形で戦争を引き起こす。
- 2. 英国派
イギリスからきた軍人、入植者、王族関係者。フランス人が作り上げた先住民たちとの関係性や貿易市を奪い、土地や貿易を牛耳ろうと試みた派閥。
- 3. 中性派
そのどちらにも属しなかった立場の人間。いずれはどちらかを選択するよう強いられ、争いに巻き込まれる。
もちろん2.の英国派は、ほとんどがイギリス出身者でしたが、中にはアメリカやその他のヨーロッパ出身者もいましたし、英国派を支持している先住民も多くいました。その中でも、のちにナイアガラの滝周辺地域の発展に大きな影響を与えることになるのがジョン・バトラー(John Butler)やフィリップ・ベンダー(Philip Bender)のような人物です。
バトラーは、自身でバトラーズ・レンジャーズ(Butler’s Rangers)という部隊を招集し、英国派をリードしていきます。もとはドイツ出身のベンダーですが、彼ものちにバトラーズ・レンジャーズに加入し、5年ほど英国派のために戦います。
しかし、自分たちが生まれ育った土地に関する課税システムや法律が、遠く離れたイギリスの見たこともない王様や議員たちによって決められ、不当な仕打ちを受けている、という革命派の「反骨精神」のようなものが勝ったのでしょうか。結果、1783年のパリ条約をきっかけに、アメリカ軍の勝利をもって戦争は終わります。
(もともと土地を奪われたのはナイアガラの先住民で、土地を奪ったのは革命派の先祖たちなのですが、そんなことは彼らはもはや忘れてしまっています…)
革命派の勝利のあと、英国派の多くはアメリカから追い出され、戻ろうとした者たちは厳しい罰則を科せられます。英国王が結んだ条約のおかげで残ることを許された英国派の人間は、大佐まで昇格したバトラーの管理のもと、彼が購入したエリー湖とオンタリオ湖間の土地で生活することとなります。そこは先住民族にも見守られた安全な場所でした。
イギリス勢は、1759年から革命派に敗れアメリカを追放される1796年までの約37年に渡って、かつてフランス勢が築き上げてきた「フォート・ナイアガラ」を略奪し、周辺地域を圧迫し続けました。この戦いの終わりが、ナイアガラにとっての新しい幕開けとなります。
ナイアガラの滝の歴史|革命戦争敗北後の商業・産業
先述した通り、革命戦争の敗北後にナイアガラの滝周辺に在留することを許された英国派側の家族たちがおりましたが、彼らがのちにナイアガラの滝周辺で集落、村、町を始める最初の人間となっていきます。
ベンダーや、彼と同様に元バトラーズ・レンジャーズのメンバーだったジョンとピーターのセコード兄弟も、そのうちの数名に挙げられます。当初連れてこられた地域から西やナイアガラ川の近くに移動しながら、1780年から1807年にかけて、それらの家族の数は拡大していきます。
余談ですが、ベンダーの住んでいた家は、現在カジノで栄える繁華街のすぐそこだったとも言われています。
大規模なインフラ改善:ポーテージ・ロード
この頃、人口の増加に伴い、物流に対する需要が大幅に増えますが、搬送のスピードがそれに追いついていませんでした。
そこで、物、また人の流れをより速くするため、1788年に道の整備が始まります。代表的な道であるポーテージ・ロード(Portage Road)道は、物や人の行き来を数倍もスピードにし、その周辺地域にはホテルなどの宿泊施設が建てられ栄えていきました。
1817年には人口が1,200人までに増え、人々が生活していく上での必要なものもまた増えていきます。この頃、ナイアガラの滝の初期の商業が始まり、1785年から1816年にかけて、多数のビジネスが繁栄していきます。その中のいくつかとして、製粉工場、革製品産業、製靴業、仕立て屋などが挙げられます。また、1818年にはスカイロン・タワー付近に初の蒸留酒製造所が建てられたようで、人々の生活にも徐々に余裕が出てきたことが想像できます。
また、冒頭でも触れた様に、産業の発展とポーテージ・ロードが互いに相乗効果を起し、周辺には外部からも人が入ってくることになります。1791年には、このあたりには1つしかなかった宿泊施設が、1799年には約4つに増えます(今日の大きな都市ですと、4つではとても少なすぎると思われるかと思いますが、今とは人口が全く違いますし、記録に残っていない小さな規模の宿泊施設もあったと考えられています)。1809年には、アメリカ側のナイアガラの滝付近にもホテルが建設され、この頃からホテル建設がどんどん盛んになっていきます。
1816年には、公共交通乗用具として、駅馬車(通常4頭の馬にひかれて走る屋根付きの馬車)が$5の運賃で運航を開始し、周辺住人の足となります。
これ以降、地域の発展は産業的なものから工業的になっていきます。
1826年には、初の釘工場が作られます。
地域全体の発展が急激に進み、人々の生活が徐々に安定していく中、状況を一気に変えてしまう出来事が起きます。それが「米英戦争」です。
ナイアガラの滝の歴史|米英戦争とその影響
1812年にナイアガラの滝周辺で戦争が勃発
後に「米英戦争 (War of 1812) 」と呼ばれ戦争が始まります。この戦争の原因は複数あるといわれていますが、主にアメリカとイギリス間の土地や経済的影響を巡るものでした。当初はすぐに解決するだろうと思われていた争いも、それまでに構築されてきたアメリカのイギリスに対する嫌悪感や反発心からでしょうか、結果3年近く続くこととなります。
また、「米英戦争」と称されてはいますが、先住民たちも深く関わっていました。米英それぞれの肩を持つ形で「代理戦争」を強いられた先住民の多くはこの戦争が原因で命を落とすこととなります。
1812年の6月にアメリカ軍がイギリス軍を攻撃したのを皮切りに、戦争は始まりました。もともと双方とも、平和な話し合いで問題を解決しようと試みましたが、何年もの話し合いの末、結局状況改善が見えず。アメリカがイギリスに宣戦布告するも、当時は双方ともに戦争ができる準備はできていませんでした。イギリスはフランスのナポレオン戦争やスペイン戦争の支援のため手薄でしたし、アメリカもまた物資や戦員不足でした。
この戦争はナイアガラやアメリカ東部のみではなく、大西洋側、アメリカ南部まで広がり、多くの犠牲者を出します。多くの先住民たちがイギリス側の肩をもったことから、アメリカ軍の指揮官たちは先住民の虐殺を指令します。その指揮官のうちの一人が、アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンだったといわれていますが、かれは奴隷所有者だったことや、先住民に対してひどい差別をしていたこともよく知られています。
開始から互いに十分な準備ができておらず、戦争が続くにつれて経済的な打撃しか残さないと気づくと、平和に終戦を迎えられないかという双方の動きが始まります。1814年に遠く離れたベルギーで結ばれた「ガン条約 (Treaty of Ghent) 」を機に、米英戦争は終戦を迎えます。
※本戦争の終戦は、1814年のガン条約によってもたらされたという記録と、1815年に終戦が宣言されたなど諸説あります。
この戦争がもたらしたもの
米英双方に多大な経済的・軍事的打撃を残したのはもちろん、それに巻き込まれる形で消滅寸前に追いやられた先住民たちが一番の被害者といってもいい結果となってしまいます。
また、上記の条約によってイギリスの輸出・入が制限されたため、北アメリカの商業的発展にさらに拍車がかかるような結果となります。また、両者共に所有地を失うことなく終戦を迎えることができました。
この戦争が終了したことでもたらされたポジティブな影響の一つとしては、その当時北米エリアで「所有」されていた多くの奴隷たちが、イギリスの国境まで亡命し成功したことも挙げられます。
また、直接的な要因ではないですが、この戦争後スペインがアメリカに現在のフロリダを売ります。これはイギリスの勢力が衰え、のちにイギリスがアメリカから出て行ったのを機に、様々な相乗効果の結果起こった出来事ですが、アメリカの所有地拡大という意味ではアメリカによい影響を残しました。
一方ナイアガラの滝の反対側カナダでは、戦争の反発から、アメリカ式のありとあらゆるものが禁止されます。アメリカの共和政体や移民が厳しく制限されました。革命派やアメリカ人が争いばかりをもたらし、かなりの打撃を受けたことから、今後のアメリカと関わることをなるべく避けよう、ということだったのでしょうか。
また、戦争直後、戦争の跡地となった場所がナイアガラの滝に次ぐ2番目に人気の観光地となり、当時は戦争の退役軍人がツアーガイドを務めていたとか。
ナイアガラの滝の歴史|観光地開発
18世紀のナイアガラの滝周辺公共交通整備
観光地としてのナイアガラの滝はいつ頃から人気が出たのでしょうか。1850年までには、年間60,000人の人たちがナイアガラの滝を訪れたという記録もあります。また、1914年にはカナダの禁酒政策が終わったことが手伝ってか、観光客の数が100万人以上にも上がったとも言われています。
今でこそナイアガラの滝は最も有名な観光地の一つとなりましたが、どのような背景からここまで有名な観光地に発展していたのでしょうか。
ナイアガラの滝の開発は、主に周辺地域の「公共交通状況」が改善されるにつれて進んでいきます。
18世紀頃から旅行地としてナイアガラの滝を訪問する人が増加していきますが、当時は今と違い、国内や周辺の地域からの観光客が大半だったため、大きな問題が周辺の交通機関でした。水上ではなく、陸路の整備が本格的に着工されたのが19世紀の初頭。バッファロー&ナイアガラフォールズ鉄道(The Buffalo & Niagara Falls Railroad)やエリー&オンタリオ鉄道(Erie & Ontario Railroad)などの鉄道が運行を開始すると、ますます観光客の訪問が増えます。
1941年にはさらに画期的な設備が施されます。アメリカとカナダを行き来することができる橋の施工です。もともと1897年に施工された「ワールプール・ラピッズ・ブリッジ」がありましたが、最も有名なのが「レインボー・ブリッジ(Niagara Falls International Rainbow Bridge)」です。もともと「ハネムーン・ブリッジ(Upper Steel Arch Bridge)」の通称で知られていた橋がありましたが、1938年に崩壊し、その事実もあって、レインボー・ブリッジの着工に拍車がかかり、わずか1年で完成します。
※ナイアガラ川上に建てられた最初の橋は1848年完成の「ファースト・サスペンション・ブリッジ」でした。
先述したように、レインボー・ブリッジがアメリカ・カナダ間を結ぶ唯一の橋ではないのですが、ナイアガラの滝中心地に位置していることと、一般の歩行者が歩いて国境を超えることができるということで、非常に旅行者に重宝されています。
また、観光地のアトラクションとして大きな役割を担っているのが、遊覧船です。現在最も有名なナイアガラの滝の遊覧船は「霧の乙女号」として知られていますが、実は初代の霧の乙女号は1846年と、なんと170年も前に作られ、運行が開始されました。これは一般の交通手段としてではなく、増加する観光客の「滝をより近くからみたい!」という要望に応える形で施工が開始されました。
1860年から続くナイアガラの滝ライトアップ
ナイアガラの滝を訪れる人達にとってのお目当ての一つに、ライトアップされた夜のナイアガラの滝が挙げられるでしょう。
今の技術をもってすれば特に何も特別に感じることはないかもしれませんが、これも実は一番初めに導入されたのは1860年でした。
ナイアガラの滝がイルミネーションを導入したきっかけが、同年にイギリス・ウェールズ州の王子がナイアガラの滝を訪れる時の為でした。当時はベンガルライトというあまり持続しないささやかな光で滝を照らし出していましたが、次第にライムライトを使うようになり、イギリスの王族がナイアガラの滝を訪れるような特別な時のみ点灯されていました。
電灯ではなく電力によってナイアガラの滝が初めて照らし出されたのが1879年、ルイーズ妃がナイアガラの滝を訪れた時だといわれています。
1901年にバッファローで行われた「パン・アメリカ博覧会」の際には、来場者の注意をひくために再度ライトアップされました。今日のように毎晩ナイアガラの滝がライトアップされるようになったのは、恐らく1925年頃ではなかっただろうかといわれています。
このように、公共交通の手段が発達したことによって人の行き来が増え、観光客がナイアガラの滝を訪れるようになり、その後その観光客の需要に合わせた開発が長年かけて進められ、現在に至ります。
ナイアガラの滝 観光ツアー一覧
ツアーに参加してナイアガラの滝を観光しよう!ニューヨーク、バッファロー発着のツアーをそれぞれご案内しています。