1812年にナイアガラの滝周辺で戦争が勃発
この戦争は、後に「米英戦争 (War of 1812) 」と呼ばれるようになります。
この戦争の原因は複数あるといわれていますが、主にアメリカとイギリス間の土地や経済的影響を巡るものでした。当初はすぐに解決するだろうと思われていた争いも、それまでに構築されてきたアメリカのイギリスに対する嫌悪感や反発心からでしょうか、結果3年近く続くこととなります。
また、「米英戦争」と称されてはいますが、先住民たちも深く関わっていました。米英それぞれの肩を持つ形で「代理戦争」を強いられた先住民の多くはこの戦争が原因で命を落とすこととなります。
1812年の6月にアメリカ軍がイギリス軍を攻撃したのを皮切りに、戦争は始まりました。もともと双方とも、平和な話し合いで問題を解決しようと試みましたが、何年もの話し合いの末、結局状況改善が見えず。アメリカがイギリスに宣戦布告するも、当時は双方ともに戦争ができる準備はできていませんでした。イギリスはフランスのナポレオン戦争やスペイン戦争の支援のため手薄でしたし、アメリカもまた物資や戦員不足でした。
この戦争はナイアガラやアメリカ東部のみではなく、大西洋側、アメリカ南部まで広がり、多くの犠牲者を出します。多くの先住民たちがイギリス側の肩をもったことから、アメリカ軍の指揮官たちは先住民の虐殺を指令します。その指揮官のうちの一人が、アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンだったといわれていますが、かれは奴隷所有者だったことや、先住民に対してひどい差別をしていたこともよく知られています。
開始から互いに十分な準備ができておらず、戦争が続くにつれて経済的な打撃しか残さないと気づくと、平和に終戦を迎えられないかという双方の動きが始まります。1814年に遠く離れたベルギーで結ばれた「ガン条約 (Treaty of Ghent) 」を機に、米英戦争は終戦を迎えます。
※本戦争の終戦は、1814年のガン条約によってもたらされたという記録と、1815年に終戦が宣言されたなど諸説あります。
この戦争がもたらしたもの
米英双方に多大な経済的・軍事的打撃を残したのはもちろん、それに巻き込まれる形で消滅寸前に追いやられた先住民たちが一番の被害者といってもいい結果となってしまいます。
また、上記の条約によってイギリスの輸出・入が制限されたため、北アメリカの商業的発展にさらに拍車がかかるような結果となります。また、両者共に所有地を失うことなく終戦を迎えることができました。
この戦争が終了したことでもたらされたポジティブな影響の一つとしては、その当時北米エリアで「所有」されていた多くの奴隷たちが、イギリスの国境まで亡命し成功したことも挙げられます。
また、直接的な要因ではないですが、この戦争後スペインがアメリカに現在のフロリダを売ります。これはイギリスの勢力が衰え、のちにイギリスがアメリカから出て行ったのを機に、様々な相乗効果の結果起こった出来事ですが、アメリカの所有地拡大という意味ではアメリカによい影響を残しました。
一方ナイアガラの滝の反対側カナダでは、戦争の反発から、アメリカ式のありとあらゆるものが禁止されます。アメリカの共和政体や移民が厳しく制限されました。
革命派やアメリカ人が争いばかりをもたらし、かなりの打撃を受けたことから、今後のアメリカと関わることをなるべく避けよう、ということだったのでしょうか。
また、戦争直後、戦争の跡地となった場所がナイアガラの滝に次ぐ2番目に人気の観光地となり、当時は戦争の退役軍人がツアーガイドを務めていたとか。